日本のシュリンク包装機械の歴史
それは一枚の海苔、そして一本の電熱線との出会いから始まった。

大正時代も終わりの頃、東京は大森の地で無名の一電気技術師である松井源次郎は自信の研究の成果を世に問うために気の合った仲間達と合資会社を設立し、電気技術を応用した乾燥機械製造を始めた。
事業は順調に行くかに観えた、誰もがそう想っていた矢先、情熱に燃える彼等を訪れた不幸は、帝都東京およびその周辺部に壊滅的な打撃を与えたあの関東大震災であった。

出端を挫かれ、意気消沈している松井に手を差し延べた者がいた。その男の名は、安増安と云った。
安増安の協力を得て何とか事業の見通しは立ち始めてきた。得意の乾燥機・電熱器具を手始めに大理石を絶縁材として使用した制御盤の生産も起動に乗ってきていた。だが、松井達が仕事に精を出していられる時も永くは続かなかった。日本の国は泥沼の太平洋戦争に突入していったのである。

そして敗戦を迎え、焦土となった東京に男達は帰ってきた。ある者は出征先から、またある者は疎開先から、祖国復興のため、家族を飢えさせないため、そして本当に自分達の好きな仕事をするために。戻ってきた男達の働きにより会社は再び以前の活力を取り戻していった。

ベンチャースピリットは眠らない。
そこには絶えず新しい技術に挑戦していった男たちの姿があった。

P-Life苗木袋の分解の様子貧しいが平和な世の中で毎日を忙しく過ごすうちに仲間の誰かが云った。「ここ大森は昔から海苔の本場じゃないか、なんとか電気で海苔を上手に乾かしたり、焼いたり出来ないものかな・・」その一言が正に海苔加工業界に大量生産・工業化への道を歩ませる基となった革新的な「協和式海苔加工機」群を生み出したのである。そしてこの「協和式海苔焼き機」こそが現在の協和電機製「シュリンクトンネル」の原型であることを知る人は少ない。

たった1台の「シュリンクトンネル」ではあるが、多くの人たちの想いや願いが数十年もの時の中で熟成され今日ここにあることを憶えていてほしい。